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<ノベル>
■Prologue■ under the cherry tree in leaf
「よう。いい日和……ってわけにもいかねえか」
唐突に声をかけてきたのはいつかの般若であった。
梅雨入りが宣言されたのは何日のことだっただろう。空は今日もしとしとと泣き続けている。何の変哲もない街角、雨に濡れた木の下に番傘を差した般若が佇んでいた。
着崩した和装、無造作に肩に引っかけた振袖。手にした煙管もあの時と同じ。灰色の髪の毛は湿気を吸ってやや重くなっている。ということは、彼が寄りかかっているこの木は桜なのだろう。
花が散ってしまえば分からないものだ。平凡な葉ばかりがしとどに濡れてこうべを垂れている。
「な。分からねえもんだろ? 花がねえとさ」
彼はこちらの心中を読んだかのように、しかしどこか自嘲気味に呟いて般若面を額に上げた。面の下から覗いた顔は花曇りの空のような愁いを帯びているようだった。
「まだ咲いてる場所もあるんだぜ。ほら、この前話したハザードの」
今でも待っているのだと。誰に聞かせるでもなくそうこぼし、煙管の吸い口に唇を寄せた。
桜の季節などとうに過ぎた。しかしハザードの中では時候も関係ないのだろう。桜が咲いているだけの丘なのだという。まるでそれ自体に意味があるかのように、一本の見事な桜が無言で咲き続けているのだ。
「けどまあ、それもぼちぼち終わりさ。この夢もじきに醒める。だからもう……終わらせてきたんだ」
煙管からゆるゆると立ち上る紫煙は雨の中に溶け、消えた。
「はは。じゃあこんな所で何してるんだって話だよな」
藤色の瞳を細め、彼は静かに苦笑する。「ま、なんだ。桜がちょっと懐かしくなったってとこかな」
突然、ガアと濁った鳴き声が降ってきた。ばさばさという羽音、がさがさと鳴る葉桜。雨宿りにでも来たのだろうか、羽繕いをするカラスの姿が葉の隙間から覗いた。
「カラスねえ。何とも皮肉な取り合わせだ……なーんて、あの旦那なら言うのかもな」
頭上を仰いだ彼はふっと笑みを浮かべた。
「そうそう、最後まで付き合ってくれたんだぜ、あの探偵の旦那。暇ならまた聞いてくれるか?」
細い雨は相変わらずさらさらと降り注いでいる。カラスと葉桜の下、濡れた番傘がくるりと回った。
あのハザードな。どんな仕掛けがあるのか知らねえが、消える様子が全然なかった。いつまで経ってもあそこであのまんま桜が咲いててさ。毎日行っちゃ同じように過ごしてた。
……ああ、何もなかったよ。何日待ってもなーんも起こりゃしねえ。大の男が二人して桜の下に黙って突っ立ってるだけさ。一晩中、たまにお喋りなんかしながらな。笑っちまうだろ?
だけど……そんなことでも、俺にとっちゃ大事な儀式だったんだ。
多分有り得ねえだろうとは思ってた。それでももしかしてって、心のどこかでは思ってた。……はは。しょうがねえよな、俺も。
■rainy dawn■
桜の季節が雨の季節に変わっても藤と京秋は変わらなかった。黄昏とともに街に足を運び、宵闇が訪れる頃になれば桜散る丘へ上って一緒に朝を待つ。藤が先に来ていることもあったし、京秋のほうが早いこともあった。街で顔を合わせ、そのまま連れ立って丘に向かったこともあった。
約束をしたことなど一度もなかった。それでも二人は当たり前のように同じ場所を訪れて同じ時間を過ごした。
「ごきげんよう、京秋君。相変わらず良い黄昏だね」
「戯れはよしたまえ」
魔法の終わりが告げられた日も無人の街で同じように顔を合わせた。藤はいつものように京秋の口調を真似ておどけてみせ、京秋は穏やかな苦笑いを返した。
人気(ひとけ)のない街は今日も静かだった。黄昏から宵闇を繰り返すだけの無言の街だ。日の入りとともにガス灯が燈っても建物や家々に灯が入ることはない。黒々とした建物に挟まれ、ぼうやりと浮かび上がる石畳の道だけが二人の前に伸びている。
「変な感じだ。道だけ明るい」
「人を導くためだろう。だから道は道という名であるのかも知れない」
「道びく……ってか」
成程な、と藤は乾いた笑みを浮かべた。「だけど、道を辿ればいいだけなら簡単だよな」
京秋は短く相槌を打っただけであった。
空はいつしか燃えるような朱色から静かな藤色へと変わっていた。淡く曖昧なその色はすぐに闇に駆逐されてしまうだろう。昼と夜の狭間にほんの刹那だけ覗く、陽炎のように希薄で脆弱な、それでいて美しい色彩。そんな色の瞳を持つ藤は何を思うのか、京秋の隣でのんびりと歩を進めているだけだ。
やがて丘の上の桜が見えてきた。闇の中にぼうやりと浮かび上がる淡色の塊はまるで灯明のようだ。ここに居るのだと、ここで待っているのだと、静かに、しかし確かに知らしめているかのようであった。
妙な気分だ。もう水無月だというのに、この木の下だけが春のさなかにあるような錯覚に陥りそうになる。花の美しさも心をざわめかせる甘い香りもあの時のままだ。
ちらちらと。ひらひらと。闇を舞う花弁は雪のように白いが、雪よりも儚く、悲しい。
「しんどくねえのかなあ」
「どういう意味だい?」
「こんなに散ってるのに全然花が減ってねえだろ、この桜。散るそばから次々に花が咲き続けてるってことじゃねえか。だったら何のために咲くんだろうな。何のために散るんだろうな」
花吹雪の中で煙管をくわえ、藤は独白めいた述懐とともに煙を吐き出した。
いくら散っても後から後から花がつく。いくら咲いても後から後から花は散る。淡々と、まるで繰り返すことに意味があるかのように続けられる営みはひどく単調だ。散るために咲くのか、咲くために散るのか、真意は誰にも分かりはしない。
静かだ。ひどく静かだ。耳が痛むほどに。
「なあ」
やがて藤が口を開いた。
幹に背を預けて目を閉じていた京秋はゆっくりと目を開いた。どれくらい黙っていたのだろう。桜色の絨毯の隙間から覗く空の色は濃い藍からコバルトへと変わり始めていた。
それでも何も変わらない。桜と闇と静寂だけがたゆたっている。
じきに朝焼けが訪れる。東の果てが朱に燃え上がり、やがてスカイブルーへと取って代わるのだろう。何喰わぬ顔をして宵闇は暁へと移り変わるのだろう。
それでも待ち人は現れぬ。
京秋は黙っていた。ただ黙って藤の横顔を見守っていた。藤は軽く顎を持ち上げて視線を宙に投げ出している。舞い散る花吹雪を見つめているようでもあったし、桜の向こうの暁闇を透かし見ているようでもあった。あるいは、ここには居ない誰かの姿を虚空に求めているようにも見えた。
静かに沈黙を保つ京秋の視線の先、藤色の双眸が緩慢な微笑の形を刻んだ。
「ありがとな、秋。俺なんかに付き合ってくれて」
ちらちらと。ひらひらと。花びらは変わらずに降り注ぐ。
「――だけど、もう終わりにしようぜ」
はらりと、般若面の上にひとかけらの桜が舞い降りた。
京秋は答えなかった。理由を尋ねることもしなかった。自分は見届けるためにここに居るにすぎない。
「もう終わるんだろ、この魔法も。魔法が終わるってことは映画の中に還れるってことだ。映画に還れば弟に逢える」
だからもう彼を待つ必要も、彼による断罪を待つ必要もなくなったのだと。藤はそう付け加えて小さく笑った。
フィルムに還ったムービースターが何処に行くのか。それは死後の世界の存否と同じく根源的で解明不可能な命題であるだろう。ムービースターが実体化した後も映画の中には変わらずに彼ら彼女らがいるからだ。
確かなことはただひとつ。スターは映画の中から“抜け出して来た”わけではない。
――映画の中に還る場所が用意されているかどうかなど誰にも分かりはしない。
それでも京秋は何も言わずに肯いた。藤の決めたことに口を挟むつもりはなかった。
京秋の心中を汲んだのか、藤はやや苦い微笑を浮かべた。
「悪いな。勝手なことばっか言っちまって」
「構いはしない。以前も言った通り、私はただ見届けているだけなのだから」
「……ああ」
どちらからともなく二人は幹の傍から離れた。
ちらちらと。ひらひらと。桜はひたすら散り続ける。今までも、恐らくはこれからも。
だが、花の季節はとうに過ぎた。
「狂い咲き……ってか。理からは外れてるな」
ざざ、ざ、ざあああああああ。
気まぐれな風が桜色の絨毯を波打たせ、藤の呟きを掻き消す。
「藤貴君。これで良ければ使いたまえ」
「あ?」
「君の得物では不向きだと思ってね」
「何だ。お見通しか」
藤は軽く肩を揺すり、京秋の愛剣『響(ユラ)』を受け取った。
巨大な羽を模した漆黒の剣はまるで鋭利な鴉の羽のようだった。磨き抜かれた黒曜石のような刃の上に藤の顔が、舞い散る桜が写り込んでいる。
舞う花が邪魔をする。舞う花が隠してくれる。間断なく散り続ける桜に遮られ、藤の表情は判然としない。
「いまいち馴染まねえな、剣ってやつは」
「構わないさ。ほんのひと振りで事は終わる」
「万が一手元が狂っちゃいけねえ。な、秋、代わりにやってくれねえか?」
「それはできない相談だ。伐り倒すだけなら私にもできるが――」
わざと軽い口調で言う藤に京秋はすっと目を眇めた。
「君の手でなさなければ意味がない。違うかね?」
藤はかすかに眉尻を下げて「分かってらぁ」と応じた。
「……分かってるよ。分かってる。ちょっと言ってみたかっただけだ」
「ああ。分かっているよ」
「は。相変わらずだな、そういうところ」
片手剣を両手で握り、藤色の般若はゆっくりと振りかぶった。
花吹雪を切り裂くように、一閃。漆黒の一振りは獲物に急降下する鴉のようだった。
ず、とわずかな音が聞こえた気がした。袈裟掛けの一撃を浴びた桜の大樹が斜めに、スローモーションのように崩れ落ちて行く。
湿った土埃。まき上げられる花弁。一瞬遅れて、重厚な地響き。
ちらちらと。ひらひらと。名残のように花弁が踊る。行くあてもなくただ舞い、散る。
しかしそれもやがて消えた。倒れた木も、視界を遮る花吹雪も、何もかもが朝焼けの中に溶けて消えた。
後には朝焼けだけが残された。待ち人と同じ色の夜明けだけが。
東の空が朱に燃えても、朱の字を名に持つ朱色の青年は現れなかった。
さらさらと。桜の代わりのように降ってきたのは霧雨だった。
「通り雨のようだ。じきに上がるだろう」
京秋はわざと声に出して呟いた。藤は漆黒の剣を握り締めたままぼんやりと朝焼けを見つめている。
遠景に広がるのは銀幕市の街並。核を失い、ハザードは消えた。闇の中にしるべのように立っていた桜も消えた。弟がこの場所を訪れることはもう不可能だ。
桜の下で停滞していた季節はあっという間に現実を取り戻した。花は散った。今はもう雨の時候だ。
はらりと、視界の端を桜の欠片が掠めた気がした。
振り返ってもそこには京秋が佇んでいるだけだ。
謎めいた探偵は全てを見透かしているかのような色の双眸を藤へと向けた。
「この後はどうするつもりだね」
太陽がゆっくりと昇り始める。空の朱色は徐々に薄れ、刹那の藤色へと変わっていく。
藤は濡れた顔で笑った。
「どうせすぐ終わっちまうんだ。最後の日くらい、生きてみてもいいかもな」
「成程。相変わらず捻くれているね、君は」
「悪かったな」
さらさらと。しとしとと。絹糸のような雨が静かに注ぐ。
藤は雨を浴びるように空を仰ぎながらしばし立ち尽くしていた。般若面の目の孔から、まるで涙のようにつうと雨が流れて落ちた。
「秋。ありがとな」
「私は何もしていない。ただ共に居ただけだ」
「それがありがたかったって言ってんだよ。分かってて言わせるな」
「おや……捻くれた君のことだから、言外の意味があるのだろうと推察したのだが」
「捻くれてるのはどっちだ。穿ちすぎだぜ、秋」
軽口を叩き合いながらゆっくりと帰路に就き、交差点でどちらからともなく立ち止まる。
「じゃ、俺こっちだから」
「私はこちらだ。ごきげんよう」
「――映画で逢おうぜ」
「……ああ。約束しよう」
二人の『影』は朝焼けに染まる街へと別々に歩み去った。最後の日々はこの街で出会った人々と過ごすと決めている。
地平線を離れた太陽は朱から白へと色を変えた。燃え残りのような淡い藤色は天球の端にわずかに留まっているだけだった。
しかしやがてはそれも消え、クリアなスカイブルーに取って代わる筈だ。
何の変哲もない、平凡な朝を迎えるために。
■Epilogue■ and,he goes to somewhere
「結局、何もなかったよ。なーんにも起こりゃしなかった、最後の最後まで。……何となく分かってたけどな」
葉桜の下で番傘がくるりと回り、溜まった雫が水晶のように弾けて転がり落ちて行く。
傘の柄を手の中でくるくると弄び、般若面の青年はゆるゆると視線を持ち上げた。
「葉桜……か」
瑞々しい緑の葉は空が落とす涙に濡れ、鼠色の空をバックに打ち震えている。
「花が終わって春が過ぎれば葉が出てくる。葉が落ちれば裸木になって、冬が来て……その次はまた花が咲く。その繰り返しさ」
梢で羽を休めていたカラスはいつしか飛び去ってしまったようだった。さわさわと雨に濡れる葉の音だけが降ってくる。
「なぁ? 季節はそうやって巡ってくもんだ。ずーっと花ばっか咲いてるってわけにもいかねえだろうよ」
傘を洒脱に傾けて、青年は切なげに眉尻を下げた。
「悪い悪い、ついしんみりしちまった。じゃ、そろそろおいとまするわ。……あ? 決まってんだろ、目的地なんかねえよ。残りの時間をのんびり過ごすだけさ」
どうせ今日で最後なんだ。目の前でいきなりフィルムになられても困るだろ?
斜めに構えた傘で横顔を隠し、藤色の般若はゆっくりと葉桜の下を出て行った。
肩に引っかけた藤色の振袖はあっという間に鈍色の街並に溶け込んでいく。まさかフィルムに還ったのかと慌てて彼の姿を探したが、どうしても見つけることはできなかった。
灰色の空と地面の間には相変わらず細かな雨がたゆたっていた。
(了)
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クリエイターコメント | いつもお世話になっております。宮本ぽちでございます。 『桜下に待ち居て』の続編のオファー、ありがとうございました。
だいぶあっさりしてしまいましたが、必要な部分は拾ったつもり、です。 静かな、情景を読ませるような雰囲気を心掛けました。毎回同じことを言っている気がしますが。 このお二人を書かせていただくと、どうしても「静かに・しんみり・切なく」の仕上がりになってしまいます…。
素敵なオファーをありがとうございました。 このお二人が大好きだ…。 |
公開日時 | 2009-06-28(日) 23:00 |
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